牧師メッセージ 2005.01.23

新しい創造~A new creation

2005-1-23 ガラテヤ6:11~18(最終回)

ラストシーンというのは、映画でもドラマでも何でも感動的なものですが、今日はそのラストシーンに当たる箇所を学んでいきます。ガラテヤ人への手紙、何年かかったか皆さんご存知ですか?僕がここに来た当初からですから、ちょうど満3年。ガラテヤの手紙が6章ですが、これを3年もかけて学んだ人は、他にはいないと思います。記録ですよ。アンタッチャボーレコード。誰も到達できない記録。「やっと終わったのか」とお思いの方もいると思いますが、しかし皆さん、今日が最終回ですが、もう1回、来週は西大寺ですので、再来週、総集編をお送りしたいと思います。ほら、ドラマとかでも、総集編スペシャルとかあるでしょ。つまり、ドラマの第一話から見てない方も全体的に把握できるように、同じく、ガラテヤの全部を学んでない方も、だいたい総括を把握できるように、あともう一回いたします。

そして、これでガラテヤが終わりなんじゃなくて、さらに読み返して、心にとどめて欲しいと思います。

さて皆さん、このラストシーンを読んでみてどうでしょうか?この11節のところで、パウロが今までぐーっと抑えてきた激しい感情がですね、どっと一気に吹き出している感じが伝わるでしょうか?「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」

なぜ、こんなことを書くのかといいますと、パウロはあっちこっちに伝道に行っては迫害を受けました。で、あるところでは大変な迫害を受けまして、もう集団リンチにあって、もう周りの人はパウロは死んだかと思ったくらい半死半生状態になった。そういう迫害などが度重なって、それによってパウロの体はボロボロズタズタ。いろんな点で不自由になってしまっていたんですね。先天的なものというより、おそらくクリスチャンになってからの傷や病気だったと推測されます。

もうキリストを伝えるということはパウロにとって、それほど命がけだったんですね。ですから、パウロはもう自分で手紙を書くことができない。自分の手で、自分の目で見て、手紙を書くことができないくらいに、大きなハンディギャップを負っている状態だったんです。ですから、パウロの手紙というのはほとんど、ほかの人に口実筆記、代筆をしてもらって書かれたものです。

あの亡くなられた三浦綾子さん。作家でありましたけど、あの方もずっと病気を抱えてて、自分で小説を書くことができなかったんですね。で、ご主人が三浦綾子さんの言うことを書き留めて、全部代筆して小説を書いたそうです。

パウロも自分の手で手紙が書くことができないほどの体になっていたし、ほかの手紙はみんな最後の署名だけをパウロがサインしているんですが、このガラテヤの手紙に限っては、違うんです。つまりこの11節から終わりまでのかなり長い文章、そういう書くことに不自由な人にとってはかなり長い文章ですよね。この段落、しかも一番手紙の重要な結論の部分、結びを自分の手で書いている。

何度か申しましたように、おそらくパウロはマリラヤ熱の後遺症で、頭がガンガン割れるように痛んで、目がほとんど見えなくなっていたでしょう。ですから自分の目で見えるように、大きな字で、体をぶつけてるわけです。それだけに、ガラテヤクリスチャンに対するパウロのあふれ出る熱烈な愛を感じ取れるわけなんです。怒りの手紙と申しましたが、ぜんぜん興味のない相手に、どうでもいい相手に、真剣に怒ったりしないんですよ。愛に溢れてるから、怒りの表現もあるわけです。

もう全身をぶつけている、これがパウロの生き様でした。

ところがこのパウロの生き方に対して、まったく対照的な生き方の人が12節に出てきます。

「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」

肉において見栄を張ろうとする人って誰のことですか? これはずっとガラテヤクリスチャンを惑わしているユダヤ主義者、律法主義者の偽クリスチャンのことです。

パウロは「彼らは何も聖書に書いてあるから、あなたがたに割礼を受けるように要求しているんじゃない。彼らは、自分たちがよく思われたいから、人からいい評価を受けたいから、無理に割礼を強要している。」当時、キリスト教会はユダヤ当局からにらまれてました。ところが、このクリスチャンになったんだけど、クリスチャンにも尊敬されたいし、ユダヤ当局にもほめられたかったんです。誰からも批判されないような道を選びたかった。そうするとどうなるんですか? 折衷案を取るんです。

クリスチャンは誰からも批判されない生き方をすべきです。どんな人にも礼儀と愛をもって接するべきです。でも、これだけはゆずれないというものがあります。人からなんと言われようと、強要されようとゆずれない部分があります。それが、パウロがガラテヤクリスチャンに言わんとしていることなんです。これをゆずってしまったら、もう十字架の意味がなくなる。クリスチャンであることの根本的な意味合いもなくなる。

ペテロは何度も議会に呼ばれては、「あの名を語ってはならないと言ったじゃないか」ってお偉いさんに言われるんですよ。そしたらなんて言ったんですか?「人に従うより、神に従うべきです。私たちは自分の見たこと、聞いたことを話さないではおれない!」って逮捕されることも、殺されることも恐れずに、大胆にイエスの御名を伝えていったんですね。 クリスチャンは生き方として最も道徳的で、愛に溢れてました。どの時代でもクリスチャンほど法律を守った人種はいなかったんですよ。でも、イエスの名を伝えることは、どんなに法律が禁じても、国家がNOと言っても、伝えなきゃいけないんですね。そうして、違った文化に、キリスト教が浸透して、こうして広がっているんです。そういう命がけのクリスチャンが、まさに命を捨ててまで、キリストを宣言したから、日本の地まで福音が届けられている。

日本の教会と韓国教会の違い。韓国のキリスト教会は、爆発的に急成長を遂げました。祈りの力と言われていますが、その一つの大きな要因として、どんなに日本の天皇陛下を神だと言っても、断固としてイエス以外に神はないと言って、天皇崇拝を拒否して、たくさんの人が殉教して、なくなっていったんです。でも、その血の上に教会が建てられ、その熱い信仰をもった方々が、爆発的にイエスは主であると伝えていったんです。

日本の教会はですね、一部は断固として拒否しました(ホーリネス教団など)。でもそのほとんどは、今の日本基督教団に統合されて、教会に集まっても、天皇を賛美するように言われて、妥協したんです。ほとんどが妥協したんです。だから今の日本の教会は弱い、停滞していると言われている。

本当に、ガラテヤ教会を惑わしたユダヤ主義的クリスチャンのように、妥協して、長いものには巻かれていって、誰にもいい顔したかったら、そこに輝きはありません。命はありません。キリストの十字架による感動もありません。

日本の教会は折衷案、妥協策をとった。これは政府にも教会にもどっちにもいい顔をしてるってことですよね。そういうガラテヤクリスチャンに、パウロはNO。激しく違うんだ!ってことを言ったんです。救いは、ただ十字架だけ。イエス様の十字架が私の罪のためだと信じるだけ。これを徹底して言ってるんです。もし割礼や律法など、行いが救いの条件になったら、もはや福音ではない。普通の宗教となんら変わりない。

13節「なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」

肉というのは割礼によって傷つけられた体のことです。割礼によって傷つけられた体を持ってる人が、たくさんいればいるほど、その人はユダヤ教の教師として優秀だというふうに求められる。それが肉を誇っているということです。

今でたとえていうならば、これは悲しいことですが、教会でも、牧師の中でも見られる。私は教会を始めて何年で、こんだけ大きくなりました。そうするとどうなるか、「いや~ それはすばらしいですね~ 先生。秘訣はなんですか~」となるわけです。そして一人一人を大切に時間をかけて導きながら、やっている先生には誰も見向きもしない。そういう外側だけを計って、プライドにしたりそういう実態があります。

14,15節「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは 新しい創造です 。」

これはどういうことでしょうか。「この世界は私に対して死んで、私もこの世界に対して死んでしまった。」これは、つまりこの世の評価に対して、この世の人たちが、目の色を変えて求めるそういうものに対して、また失うことを畏れる、そういうことに関して、私は十字架につけられてしまった。死んでしまったということです。

皆さん、死んだ人の前で何を見せたって反応しませんよ。私は、この世界のそういう評価、システムに対して死んでしまった。この世界が私をどう評価しようと、死んだ人に言っているのと同じなんだ。そういうランク付け、価値感、評価によって私は生きていません!ってことなんです。

パウロはときには好評を博し、時にはもう大変な批判を受けた。批判は最後まで絶えなかった。でもそれによって彼の喜びは奪われませんでした。なぜなら、死んでいたから。この世の人がいっつも気にして不安になっていうそこからパウロは解放されていたのであります。

皆さんどうですか?これがすなわち今日のテーマ。ニュークリエーション。

そして死んだだけじゃない。15節。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」私たちは造り替えられたものでなく、クリスチャンはイエス様を信じることによって、新しく創造された者だっていうんです。新しい創造、その前に何もないからこそ創造なんです。「古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」古いものはどこいってしまったんですか?死んでしまったんです。この十字架の上で。(ローマ6章)

皆さんはこの世の評価に死んでいらっしゃいますか?そして新しく創造されてますか?

最後に17節で、パウロは「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」すごい言葉を使ってますね。根性焼きなんかメじゃない。焼印ってなんですか?知ってます?皆さん持っていますか?あまんじゅうとか、千鳥饅頭なんかによく焼印してますよね。それから、牧場に行きますと、牛とかに番号とか焼印が押されている。これはうちの何番目の牛だぞってしるしです。誰も持っていってはいけない、私のものだということなんですね。

つまり、クリスチャンはイエス様の焼印が押されてるってことは、「あなたはわたしのものである。(わたしがあなたを買い取った。わたしの高い血潮の代価で。誰にも指一本触れさせるわけにはいかない。)そういう焼印がクリスチャンには押されている。

あなたは押されていますか?「私は主のもの」焼印ですから、見えるんですよ。こっそり隠してる人、クリスチャンであることを恥ずかしがっていません? その気持ちは僕はわかる。以前そうだったから。日本ではマイノリティーですよね。え?イエス・キリスト信じてるの?なんで?ってなるわけですよ。そーういう質問攻めに答えれる自信がなかった。でもね、ワールドワイドで見たら、私たちはメジャーですよ。世界の3分の1がクリスチャン。しかも特に先進国で。ですから、神を信じてないってほうが、マイノリティーです。僕は逆に聞きたいですよ。これだけ聖書にしても、自然にしても、個人レベルにおいても、これだけ神様のすごさが、みわざが表されているのに、信じないの?って言いたい。

パウロは自分の体に負っている傷を指して、これはイエスの焼印だと言っている。これはキリストの愛のしるしだ。私はキリストのものなんだ。あなたにもきっとそういうしるしがあるでしょう。

弱さを通して、現れるイエス様。マイナスに見える部分もキリストにあって宝になるんです。

十字架によって、この世界の評価に死んで、新しく創造されてまいりましょう。