牧師メッセージ 2004.12.19

和解のために来られたキリスト

イザヤ9:6、エペソ2:14~16

今日、礼拝にやってこられた方は、本物です。本物のクリスマスを過ごしています。偽者じゃありません。クリスマスシーズンいろ~~んなやることがあって、楽しいこともあれば、あわててしなきゃいけないこともある。でも、礼拝以外に、イエス様の誕生をお祝いするそれ以上のものはない。ベストシング。願わくはすべての人が、本物を過ごして欲しいと思います。

イエス・キリストの苦しみは、最後の十字架だけじゃなく、その全生涯が33年半の間、苦しみに満ちていた。神の子が制限のある肉体を持ち、罪に満ちた人の社会に住むってことは、それだけで異質な世界、苦痛そのものであったに違いない。でも、それは私たちに愛を明確に、クリアに表すために。罪によごれた私たちを放っておけない。自ら、十字架にかからない選択はいくらでもあったにもかかわらず、選んで、十字架に向かっていってくださった。

「愛してるよ」「I love you」の言葉は、もう聞き飽きた。まだ聞いたことない人もいるかもしれませんが、言葉なんて誰でも言えます。うそでも言えます。いや、言葉だけなら、うそです。

クリスマスは、まさに愛を行動に移した出来事。キリストは愛を実践するために、地上に生まれてこられました。

その具体的な内容が、今日の箇所です。

エペソを見るならば、神と私たち人間との和解を成立させるために、やってこられた。

今年は、平和を与えるために、やってこられたイエス・キリストをお話したい。

その昔からイザヤの箇所を通して、来るべきメシヤは「平和の君、プリンスオブピース」と言われていた。イエス様はやってこられましたよね? 世界は平和になりましたか? 今の時代、平和でしょうか? 平和は、いつの時代でも叫ばれてますが、叫んでるってことは、どの時代も平和じゃない。戦争、紛争、争いのない時代は、一時もない。

どうして、人はいがみ合うのか、争いあうのか、奪い合うのか。

自分中心、自分がよければいい。自己満足、自己愛。ここの領土はわたしのもの。わたしの言ったことが正しい。 その罪が、争いを引き起こすんです。

その発端はいつだったですか? 神様のことばにそむいて、自分勝手に、自分の思うようにMY WAYを突き進んだことによって、人類に罪が入り込んだんですよね。全人類は、今 罪に満ちています。神から離れているものは、どんな人でも罪びとです。クリスチャンはどうですか?もちろん、罪人として生まれてきた。でも、自分には罪があって、自分ではどうしようもならない。神の前で認めて、キリストを罪からの救い主として、受け取った人が、クリスチャンですよね。ですから、クリスチャンはゆるされた罪人。まだクリスチャンでない方は、ゆるされてない罪人。

このことは深刻です。罪は、神の前で、重大な、流すことのできない、深刻なことです。

クリスマスのまず第一のことは、これは毎年言っていますが、神からの贈り物である、イエス・キリストを受け取る、これがクリスマスで、私たちのすべき一番のことですよ。

キリストは神と人との和解をもたらすために、地上にやってこられた。

神と人は、大きな溝で断絶されている。それは、人間が罪を犯し、神に背を向け、自分の道をMy Wayを進んでいったがために、断絶された。罪ゆえに神を知ることがなくなった。

そしてその溝は、人間側からの、努力、宗教、良い行いなどでは決して、決して埋められない。

これだけやれば神様に近づけたんじゃないか。これだけ積み上げれば、ちょっとは今までの罪が帳消しされたんではないか。それが人間的なレベルの宗教観です。まさにギブアンドテイクの世界です。これだけやったら報いがあるんではないか。

でもその溝を埋めることができるのは、神の側からの架け橋しかなかった。それが救い主、メシヤであり、それがイエス・キリストであります。

この架け橋であるイエス様を受け取ること。

そして、キリストが神と人との間に入り、大祭司となって、いけにえとなってくださって、和解が成立したら、今度は、キリストを受け取った人間同士で、人と人との和解が成立していくんです。

今日、あなたは 誰か赦せない人がいますか?いまだなお、わだかまりがある。ゆるせていない。

誰でも、誰でもです。赦せない人が歳を重ねていくにつれて、一人や二人はいるものです。

ある方は、いやいや一人や二人じゃ済まない、そういうところをかいくぐってきた方もおられます。

私は、その人の持ってる感情を無視したくない。どうしても、ゆるせない気持ちはわかります。たとえば、事件に巻き込まれた当事者に対して、私がすぐに聖書にこう書いてあるんだから「ゆるしなさい」って言ったら、どうですか?その人は、人の気持ちを理解できない浅い人です。

私は赦せないときは、無理矢理ゆるそうとしなくていいんですよと、いつも言っています。その感情を否定しないし、受け止めたいと思っています。

まったく今は赦せなくてもいい、でもね、そのままずっとそれでいいというわけじゃない。なぜですか?あなたも大きな赦されがたい罪をキリストの十字架を通して赦された。だったら、赦された者が、ずっといつまでも 誰かを赦さないでおれるわけがない。

(イエス様のたとえ話の中で、もう一生かかっても返せない莫大な借金を免除してもらったにもかかわらず、自分がちょっとだけ貸していた人から、追い立てるように、返済を迫った。まさに自分の目のはりは見えないのに、人のちりばかり気になるとはこのことです。)

もしキリストを受け取ったと自称しておきながら、いつまでたっても赦せない。

 キリストが内側に住んでおられるのに、なんら変化もない、愛もなければ、ゆるそうとも思わない、そういう人は、今一度自分と主との関係を確かめなければならない。あなたはゆるしを受け取った人ですか?

でも、キリストがあなたを赦してくださったという、その圧倒的愛を知ったならば、ゆるせないままでいられない。こんな私が赦されたんだから、私も赦していきたい。そして、赦さなければ、相手は平気だけど、自分自身がつらい。

私も、どうしても、2人ゆるせない人がいました。いくらクリスチャンでも、そうやすやすと赦せないケースが出てきます。そんなとき、あなたのうちで、キリストの愛が広がり、駆け巡り、生きて働くチャンスです。

こいつだけは一生ゆるせないと確信したほどですが、長く時間はかかりましたが、自分の中で、ゆるして、解決しました。彼はもはや私に何の影響を与えることはできません。イエス様がこんな罪深い私を愛して、愛しぬいて、十字架にかかって、ゆるしてくれたからです。どう考えても、私の神様に対する罪のほうが重くて大きい。

赦すことは、たやすくないです。自分の感情をある意味、否定することです。

でも、それを選ぶことです。私はこの人を赦します。心に決めることです。

あるケースでは、本人にそれを伝えるべきです。物理的に伝えることのできないケースもあります。

この話を聞いた方もいらっしゃると思いますが、クリスチャン新聞のクリスマス版に載っている記事です。

最後にそこに載っていた記事を読んで終わりにしたいと思います。「本当に人を赦せますか」という見出し。

ある女性が後ろのほうで、いつも顔を隠すように、礼拝に出席していた。ある日、牧師はすぐに帰ってしまう彼女に、話しかけたそうです。何かお悩みですか? そしたら、なんとその女性は、ミス青森にも選ばれた人だったそうです。でもその選ばれた瞬間親友から、ジェラシーで、顔めがけて硫酸をかけられたそうです。美しい顔は見るも無残にどろどろに焼けただれ、激しい痛みに全身が引き裂かれるような思いだったそうです。その加害者は、逮捕され、刑務所に入った。事件としては解決したものの、そこからが彼女の苦しみの始まりでした。人前には出たくないし、故郷にも帰れない。そんなときに、ふらっとたまたま見かけた教会に足を運び始めたそうです。その話を聞いた牧師はですね、あまりにも悲惨な体験に慰めの言葉もなかったそうです。でもその牧師は「自分にはこの女性を救うことはできないけど、イエス様は救ってくださる」と確信しました。それから何度もその女性と面談する中で、神様を信じていきたい、バプテスマを受けようと思った。でも、イエス・キリストがあなたの罪のために、十字架にかかった。そこに引っかかった。私は、被害者。自分がなんで罪びとなの?心の葛藤があったそうです。でも洗礼準備をする中で、憎しみ、愛のなさ、自己中心、闇の部分を照らされて、最後に牧師に「あなたはその親友をゆるすか」と聞かれて、女性は黙ったまま、5分、10分、15分。牧師には1時間にも感じられたそうですが、とうとう女性はしぼり出すように「はい。赦します」その時から、今までの暗い世界から、新しい明るい世界が輝き始めたそうです。そしてそれだけじゃない。やがて、刑務所で服役した親友が出所したとき、彼女は自分の家に迎えて、いっしょに住んだそうです。

あなたなどうですか?

今日、和解をもたらしてくれたキリストを信じて、そして、まだ解決できていない、まだ和解できていない あなたの隣人と今日、ゆるしを宣言するときをもちましょう。

メリークリスマス。平和があなたのうちにやってきますように。

イエス・キリストが、あなたとその相手の架け橋になってくれます。そして必ず新しい輝く明日が開けてきます。